すなはま
      すなはま

 昔から夕焼けを見ると胸が悪くなる。
 空が紅でにじむ様が禍々しく、忌むべきもののように感じられるのだ。生理的な嫌悪というものだろうか、今もその光景から目をそむけ歩きなれた家路をあしばやに行く。
 家に入り、がらがらと古い引き戸を閉めれば、なんということはない。紅一色の光景は彼方へ去り、衣食住にまったく不自由しない一介の学生が、いつもの家にいる日常ということになる。アルバイトはしつつも無為徒食と言って差し支えない。黙っていても飯は出てくるし、勉強もほぼ無しで通ってしまう。学校、家、バイトの反復、1年間のその繰り返しの中に得たことは、ただ生活するということの悲しさだった。自分自身を悲しいと感じる、直視できないほど真っすぐで歪な自己愛が日増しに大きくなる。それを押さえつけるように押し潰し心の隅にねじ込んでおく。執拗に握りつぶしたはずのそれがじんわりと膨らみくるのが耐えられなく、気づかない体を装いながらまた、相手の様子を伺いやりすごす。  近頃はその苦し紛れで絵を描く。誤っても描きたいから描いているというのではなく、悲しみからの逃避に他ならなかった。しかし先ほどの夕焼けに参ってしまい、今は逃避さえままならない。
 夕飯を終え自室に戻ると、アルバイトまでの時間をパソコンで潰す。寂れた海辺の町でも今やネットさえ繋がれば何でもできる。いやできるはずだ。CDや漫画などで散らかった勉強机のなれの果てに鎮座するそれの電源を入れ、SNSに繋ぐ。近々結婚する友人の式の余興について数人で話し合うためだ。
 大樹:じゃあ式場の全員がわかるネタで楽しいものってことな
 碧:具体的に何も決まってない件について
 亮介:あと迷惑にならんものも追加で
 俺も書き込むことにする
 透:やー遅れたすまん。ログ読んでくるわ
 碧:それじゃ亮介は参加しないってことかー
 亮介:いや言ってる意味がよく。透やっとか
 大樹:おっす透。亮介の存在自体が迷惑なのは仕方ない。建設的な意見求む
 亮介:おまえに言われるとなぜか傷つくな。海でも見てこよう
 碧:歌とか! ベタすぎか被りそうだし。
 透:めんどくさくないものきぼー
 碧:おまえも海いってこい
 亮介:よかったな仲間ができて
 透:あ、まだ居たのか
 大樹:おまえら追放するぞ。歌以外なにかある?
 ・・・・・・
 その後も話し合ったもののこれといって良案も出ず今日はお開きとなった。ちょうどバイトに出る時間でもあった。
 宅配便のバイトだが運ぶわけではなく、トラックの運ちゃんと一緒に大型トラック内へ荷積みするのだ。深夜から明け方まで休みなしで続く。ペアのドライバーも見知った人なので阿吽の呼吸で積み込み、最後の荷物を引いたときには空はもうすっかり明るくなっていた。徹夜で体力も限界だがこの瞬間はいつも清々しい。事務所で日当をもらい自転車のペダルに力をかけた。
 暖かくなってきたといっても早朝はやはり冷える。積み込みでかいた汗が始めこそ火照った体に心地よかったが、今では身震いさえおきそうだった。それでも風当たりのつよい海沿いの道を選ぶ習慣は変わらない。夕焼けが嫌いなのと同じくらい海が好きだった。潮風に身を冷やしつつ彼方まで続く海岸線を見やる。空は高くあり。人が騒ごうが悲しもうがこの場所はいつもだった。そう、変わらずにと言えるほど違和感なくその人がいた。ズボンは太ももまでまくりあげられており、そのまま冷たい海にたちこんで沖を向いていた。遠浅の海だからかなり沖に見えるその姿は小さくて、それでも目に留めたが最後、流せない気配があった。それからしばらく眺めていたがあちらさんは動く気配もなし、自分には学校もあるしで力ない足で再び自転車を漕ぎ出した。もし浜にあがってきたなら、どうしたんですかってひとこと聞いてみたかったなと思いながら。

 いらない授業は寝るに限る。空調は完璧、静かだし、出席も取れる。これほど眠るに合理的な環境をほかに知らない。その幸せな時間の中でけさ浜にいた人の姿を見た気がした。そこでも自分は見ていることしかできなくて――
「 おーいもう授業終わってんぞー。」
 大樹だった。
「 昼飯いこーぜ。」
「 んー。」
 のっそり顔をあげると、いつの間にか昼休みになっていて、周りが姦しい。もう少し寝ていたい気分でもあったが、そうすると次の授業中にパンをかじることになる。寝起きのとろけそうな頭で予定を計算する。
「 バイトそんなにきついのか。」
「 なぁ次の授業代返しといて。」
「 あぁ了解。でもま、あんまり無理すんなよな。」
 大樹は肩を強めに叩いて学食へ向かっていった。バイトのことを知っている大樹はあっさり引き受けてくれた。器がでかいってのはああいう奴を言うんだろう。自分が女なら惚れてしまうかもしれない。まぁ逆に大樹から頼まれれば自分だって代返くらいするわけだが、碧や亮介の頼みなら貸しにしてしまうだろうというあたり、自分が自分なのだった。
 散乱していた教科書を鞄に突っ込んで、つい二時間まえに通ったばかりの道をとって返す。途中の購買でパンを買いそのまま電車に乗り込んだ。この時間では電車の人もまばら、どの人を見てもどこに何をしに行くかなんて、てんで分からない。世界とは本来こういうものなのではないか。朝の学生の詰まった車両、サラリーマンの詰まった車両、型にはまった人が群れる、そのような光景を見るたびに目をそらしたくなる。自分もその中の一人なのだが、型から抜け出すということは容易ではない、小学校の朝礼ではないが、前に倣えが合理的であり、何より楽なのだ。  景色は商業地、住宅街を経て、田舎の町へと遷る。自宅の最寄り駅ひとつ手前で降り、北へと歩を進める。もう陽は高いので寒くはないが、時折ひんやりとした風が抜けていった。こうやって歩くのはいい。空気が雰囲気が、一体になる。堤防に行き当たってそのまま堤防沿いに歩いてゆくと、今朝の場所まではすぐだった。朝とはまるで雰囲気が違い鮮やかな海の色と、白い砂のコントラストが陽の照り返しと相まって目に眩しかった。堤防を乗り越え砂に腰を下ろす。鞄から授業用ノートと鉛筆を取り出すと、今朝の光景を思い出しながら絵にしていく。今と違う時間の絵を思い起こしてかくのが楽しかった。このとき初めて絵を描くということが楽しくて、そのこと自体が嬉しくて。必死になって描いた絵は他人から見ればどうしようもない代物だったろうが、それは紛れもない自分の証だった。
 家に戻った後、一直線に部屋へ行き、達成感と疲労感と高揚感がないまぜになったまま鞄と一緒に布団へ倒れこんだ。どれだけたっただろうか、昂ぶりが落ちつくともう相談の時間になっていた。寝転んだままんーっと手を伸ばしてパソコンの電源ボタンを押す。マザーボードに通電し、画面が立ち上がる。しかしまだ大樹しかいなかった。
透:よー。今日は代返さんきゅ。助かった。
 少し時間があって返事が来る
大樹:あれくらいならいつでも。ただ今日こそは良案を出してもらうからな!
透:まかせとけ、みんなで考えよう
大樹:日本語の乱れを感じる。日本人としてこれほど憂うものは他にないだろう
透:言葉は生き物であるゆえ、時代によって変化する。よく心に刻んでおけ
碧:いやもっとも憂うべきものは透の頭だと思うよー
亮介:ドクター碧、まだ諦めるな。 透の脳はまだ救える! 私の秘蔵の薬を使うがいい
大樹:そろそろいいか?

 恒例と化している相談会も終わり、また布団に突っ伏す。これではいかんと座りなおし、今日海岸で描いた絵を鞄から引きずり出すと一緒に入っていた砂粒までぱらぱらと畳に散った。思い入れのせいがあるのは確かだが、あの時間の空気が紙の中で静止している気がした。静謐が絵のあるこの部屋に広がった。

 翌朝は日の出前に起きた。親を起こさないようにゆっくり部屋からでて自転車を漕ぎ出す。風は弱い海風。そらは暗く雲が出ているようだ。入り組んだ路地を縫うように抜け、最短で昨日の場所を目指す。近づくにつれて鼓動が早まる。その分ペダルにかける力が自然と強まる。
 果たして、そこにはまた人影があった。自転車を堤防に立てかけ、砂浜を走った。靴の中に砂が入ってくる。足が重くなり靴をその場に脱ぎ捨てて走った。
 「 あのーっ。」
 息も息も切れ切れのまま背中へ叫ぶ。怒鳴りに近かった。声が届いていないかもしれない、無視されるかもしれない、なにより昨日自分の絵を眺めながら、あの神聖でさえある静謐を破るということは果てしなく無粋なのではないかと恐れた。沖に立ち込んで日を背負うその人はこちらを振り返ったように見えた。それからゆっくり岸へと近づいてきた。 「 おぉ、やっぱ透じゃん。」
 逆光で、まったく顔が見えないその人の声は碧に似ていた。友達の声くらいいつ何時でも聞き違えはしないが、この場に至ってはそれも難しかった。そのままばしゃばしゃと浜に上がってくる段になってようやく碧本人なのだと頭が理解した。
「 なにやってんの、こんな時間に。」
 碧は普段と変わらない調子で聞いてきた。
「 昨日も立ってたろ。何やってんのか気になって。」
「 あぁ昨日も見られてたんだ。これはなんていうか…病み付きになってしまったというか。」
 波のこないところまで下がって二人で腰を下ろす。
「 この前さ、偶然ここを通りかかったときに。」
「 うん。」
「 あんたパン食べながら聞くつもり、楽しみを切り上げてあがってきたのに。」
 碧だとわかり気の抜けた自分は、昨日帰りに買って食べそびれていたパンを頬張っていた。しかしそれはさすがにいけなかった、こういう時の碧には物を与えるべし。無言でパンを半分にちぎり差し出した。一瞬の思案があったが奪い取るように受け取ってかじりながら続ける。
「 ただの海岸なんだけどこの時間の雰囲気が好きでさ。午前が暇なときはこんなことしてる。」
 ほかの人が聞いたらちょっと理解されないだろうなと思いつつ、前方の海を眺めた。
「 わかるよ。」
 碧の目線がパンから自分に移った。
「 まぁ海の中に立ってる人がいたほうが絵としておれは好きだけどな。」
「 絵って。」
「 昨日見たのを絵に描いてみた。」
「 変態。」
「 いやお前だって分からないくらい小さな人影だったし。」
 雲が空を覆って少し風が強くなってきた。
「 当分できなさそうだし、もう一回いってくるね。」
「 おれも行っていい。」
 碧は笑ってうなずくと先に海へ入っていった。自分もズボンをまくり上げ、後に続き隣にたった。初春の海は思った以上に冷たく、少し前で砕ける波の水滴が時おり顔に飛んでくる。陸から見る海と、海から見る海はまったく違った。視点が低く、体が海にぽつんと浮かんでいるような錯覚を覚える。海が客観ではなく主観になる。その瞬間、自分は人としてではなく海という概念の一部として海に存在していた。
 と突然碧が足で小突いてきた。
「 パンもうないの。」
 かぶりを振る
「 じゃあそろそろ上がってどっかお店入ろー。」
 見ると彼女の体は小刻みに震えていたので支えようと手を出したが、今度は彼女がかぶりをふった。気づかないうちに自分も手だけでなく全身が震えていた。二人でその手をまじまじと眺めて苦笑し、寄り添いながらよろよろと、どんよりした海を浜へ歩き出した。
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