自転車

 自転車のペダルを踏み坂をのぼる。息があがるほどに、冷えきった空気が肺へ流れ、出ていくたび、その冷たさがのどを伝い頭の後ろが痛くなった。それに反して体は温まり、じとっと汗がシャツに染み込むのを感じた。鬱蒼とした林道の中にあって嫌な心地だったが、またそれが心地よくもあった。

 どのくらい漕いだか、杉林を縫って日の光がちらちらと見えだした。私と先を行く岡田は林道の端に寄って自転車を止めた。止まってみると、しんとした森の薄暗さが突然に迫ってくるようだった。
「今何時」
 そう聞かれて
「七時」
 とスマホを見て答えた。
「なら、このままいけば大丈夫、夕方までにはつくよ」
 そう言って私の自転車のタイヤを細い目で見た。このサイクリング用ではない普通の自転車が気になるのだろう。私からすれば向こうの細いタイヤのほうがずっと心もとなげに見えた。
「こういう自転車じゃやっぱだめだな、辛いな」
「・・・」
「辛いなぁ」
「・・・」
「辛いな?」
「交換はせんぞ」
 そう言って笑いながら先に走り出す細いタイヤを眺めてから、急いで自分の自転車に跨った。

  岡田がよく来るという場所には夕方前に着いた。荷台に括り付けたテントを下ろす。子どもの頃の秘密基地をまた作っているようで、少し心躍るようだった。当時も岡田はその一員で、小学校が終わるとみんなそこに集まったものだった。
「コーヒー」
 手慣れた手つきで用意されたコーヒーを受け取った。あの頃はコーヒーなどただの苦い水だった。今でも苦手な私は温かなカップをくるくるとまわし手元で遊んでいた。それを見て、「あぁ」と呟くのが聞こえた。
「前いつきた?」
 と聞いてみた。
「二週間前」
 カップを置いて今度は火をつけようと焚き木に息を吹きかけていた。
「けっこうやることあるんだな」
 彼の顔には焚火の火の赤が揺らめいて見えた。ぽんぽんと投げ込まれる薪が、順番に燃えていく。火中に投ぜられた薪は、一見すぐに炎に燃やされているように見えたが、周りから小さな炎をだしているだけで、外側さえなかなか燃え出さなかった。周りが燃えたところで、火が芯に到達するにはまだ時間がかかるうえに、芯に到達した時でさえまだだというふうを装っているかもしれない。武士は食わねど高楊枝という言葉を思った。そして目の前の男をふと見た。
「飯もってきた?」
 そう言われてハンバーガーを取り出すと、また無言で目が細める。その感じが兄貴のようで胸の奥ががさついた。木の枝にハンバーガーを三つ刺すと巨大な団子のようになり、火にくべてやった。薪に比べてハンバーガーはあっという間に火がつき黒く変色した。焦げくさいにおいが焚火の煙とまざってあたりにたちこめ私たちの鼻まで届いてきた。そのまま枝を向こうに突き出し先端のいちばん黒くなった一つをやった。コーヒーのお礼だと言うと
「そりゃどうも。じゃあ俺はこれを」
 肉の入った包みを広げる。網にのせる。実に美味しそうな匂いが漂い、いよいよ煙が盛大に立ち昇った。風向きによって右に左に煙が流れ、自分の方にくるたびに服へ匂いがつくだろうかと考えた。安く薄い肉はのせたそばから焼けて火が燃え移り、私たちはよく分からないままとにかく食べた。岡田は煙などまったく気にしない様子で構え、火の具合をみながら次々と食っていた。
「これどれくらいしたの」
「千円くらい」
「それって安いんじゃないの」
「ハンバーガーよりは高い」
 あらかた肉もなくなり、酒が入って二人して酔ってきた。見るものも不確かになり、顔が酒で赤いのか、火が映って赤いのかさえわからないようになった。酔いが回ったせいだけではなかっただろう、しばらく忘れていた開放感があった。
「そういえばいま何時」
「九時。時計持ってないの」
 そう聞くと「あるけど」と言う。
「スマホの時計も非表示にしてきてるし」
 そう言ってバッグの中から腕時計をだしてよこした。アナログ式のものだった。文字盤には時刻の数字のかわりに印が書いてあるタイプで、長針が切り取られていた。
「自分で切ったの?」
「ああ。江戸時代って時計が普及してなかったからほぼ二時間ごとの鐘の音で時刻を知ったんだって」
「それの真似ってわけか」
「そうそう。大雑把なところがいいだろ」
 不便そうだ、そう言いかけて「それはいいな」と答えた。

 寒さで起きるとちゃんとテントに入って寝ていた。運んでくれたのか自分で入ったのか覚えていない。燃え尽きた薪の山、空いた酒の缶、コーヒーがはいったままのカップ。テントの外には愉しかった残骸があちこちに散らばっていた。冷えきったカップを取って一口のんでみる。そうすると余計に昨日の余韻が強くなるように感じ、その場を離れた。

 岡田はまだ眠っていたので、ひとり道の先に進んでみた。専用の自転車は軽く踏んだだけで地面をしっかり捉えて前へ進んだ。がっしりしていて岡田の自転車という感じがして頼もしかった。右に左に安定して動ける感覚に驚きながら、左への曲道でブレーキをかけると前輪が落ち葉ですべり、次の瞬間には転んでいた。何が起こったか理解できず、理解しようとしたときには出血した膝と肘から懐かしい痛みが伝わってきた。呆然と痛みに耐えていると、森の香が私を現実に引き戻し、優しくも厳しくもなく、私がそこに存在することを感じさせた。傷の土などをできるだけ落とし、ゆっくり漕ぎだした。
 戻ると、起き出していた岡田がこっちをみて大笑いしていた。私は自転車に傷をつけたことを謝り、岡田は気にしないと言った。
「これやるよ」
「くれるの」
「新しいの買おうと思ってたから」
 改めて見るとさっきの以外にも傷がいくつかついているのに気付いた。
「ありがとう」
 突然の好意にけがで鬱屈としていた胸が晴れる思いだった。私はその心情を伝えたくて、どうすれば良いかわからずに、必死で言葉を探したが、面映ゆくなり、なぜかありがとうともう一度繰り返した。
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