そこへ

 ぽたりぽたり降る雨だった。僕は縁側の手前に座って、ふりおりる雨の庭先をぼんやりと眺めていた。そこには捨て置かれたお盆があり、不規則な、しかし途切れることのない波紋が延々と広がっていた。薄暗くじめついた空気がわずかに揺らいだ。気圧が低くなり雨が降りだすと、魚たちは水面付近まで上がってくるという。似たようなものが僕にもあるらしい。このような感覚が好きだった。しかるに、感覚頼りじゃ世の中うまく生きてはいけない、と前々から考えずにいようと避けていた案件が頭をよぎる。頭を最大限はたらかせて上手くやる人もいる、それに比べると自分は効率のいいやり方をしているとはとてもじゃないが思えない。しかしこれからも感覚的にやっていきたいし、必死に考えて効率のいいやり方を実行するということはできればしたくない、それでも社会は効率を求める、といつもの堂々巡りを始めるのだった。
 僕は正座からそのままことんと横に倒れた。髪がぱさっと畳に広がった。湿り気の香を含んだ一陣の風が薄暗い部屋へ、ざっと吹き込んできた。雨が落ちるお盆の波紋をいつまでも見ていた。

 そのまま眠ってしまったようで、気がつくと雨はあがっていた。それでも鉛筆で書き殴ったような雨雲はあたり一帯を陰鬱な影で包み、蒸し苦しい風と相まって気だるさが胸を押し上げた。僕は黒紫色の雲を抱えたまま練習用の靴を履いて玄関を出た。
 つい先日、衝動に駆られてある同級生に告白をした。それまでの間、こんな気持ちがあったのかと自ら驚くほどの、相手に対する心持ちが続いていたせいで、前を行く彼女の姿を見かけた僕は思わずそんなことをしてしまったのだった。それはよく澄んだ秋の朝で、ジャージを通して吹く風が少し肌寒かったのを覚えている。彼女は僕と同じ陸上部のジャージを着、緩やかな坂道を競技場へとひとり坦々と登っていた。前方に揺れる肩までの見慣れた黒髪ですぐに彼女だと分かったけれど、その時は別段なにをしようとも思っていなかった。歩いている後ろまで自転車で追いついて
「おはよう。」
 と声をかけた。すると彼女も振り返って
「あ、おはよう。」
といつものように無愛想な僕へ、またいつものように少し儚さを帯びた笑顔で挨拶を返してくれた。ちょっと先の秋には枯れてしまう朝顔のような儚さと、しかしその中に自負している凛とした空気が同居していた。
あとはそのまま横をぬけて行くだけだった。そして、すっと隣に並んだとき、ふいに妙な心持ちになった。気づいたときには自転車を降りていた。余計な言葉を口走っていた。彼女は
「えーっ。」
 と言って笑った。そのぎこちない笑いが不自然に途絶える。こちらを向いた彼女の顔が曇り、見ていられなかった僕はさっと目線を落とした。ただ沈黙だけが流れ、困った感じの彼女と、俯いた僕は二人してつっ立っていた。気まずい早朝の静けさが体の底まで染み込んできて、どうしていいか分からなかった僕は、伝えたかっただけだから、そう言い捨てて自転車に跨りその場から逃げ出していた。

あれが先週の日曜日だから丸一週間たったことになる。それからは少しぎくしゃくした日々が続いた。陸上の中長距離は男女で走る距離も速さも異なるため、僕の高校ではアップのみ男女混合でまとまって走ることになっている。わけを知っている後輩の女子は、彼女と何やら話していたかと思うと、笑いつつこちらをちらちら窺ってくる。僕がこの前のことを話したのは800メートルを専門にしている友人ひとりだけだが、彼女がどこまで話しているのかは見当がつかなかった。しかしアップのあとの練習本番となると、そういうことはもちろん気にできない。自分をどこまで追い詰められるか、先頭についていけるか抜けるか、まさに生きるか死ぬかという世界なので、10000メートルペース走のあと1000を5本というメニューでは余裕のあるはずがないし、彼女の読み上げるラップもそろそろ聞きなれていた。ラップとはトラックを1周する時間のことだ。今どれくらいのペースか知らせるため1周ごとに走っている全員へ伝える必要がある。
「42、43、44…。」
 余裕はないが、最初の1周目くらいは声を聞いて、死んでも喰らいついていくぞという気持ちが強くなる。
彼女は先月まで3000をメインに部員として走っていたが、足の怪我でマネージャーに転向し、走れるのはアップだけという状態になってしまっていた。これまでもマネージャーは1人いたのだが、短距離をやっていた人だったことと、人手が足りないこともあり、中長距離のラップ管理は自分たちで行っていた。メニューによって得意な者がストップウォッチを握って走り、苦しいなか、1周ごとに読み上げていた。その点では彼女がラップをとってくれるのはすごく助かる一方、走れなくなってまで部に残ることから彼女の未練を感じ続ける。彼女のジャージ姿を見るたびに。ラップタイムの声を聞くたびに。どういった気持ちで走る僕らを見、何を思っているのだろうか。

 雨雲はいまだ隙間なく、雨はあがったというのに風はむしろ強まっていた。住宅街をアップ代わりに軽く走り抜け、人気のない遊歩道に出てから、とばし気味に走り出す。あのとき好きだと伝えるだけでなく付き合ってほしいと言えばよかったか、言えたのか、そもそもあの反応では…、これからどう対応したらいいのか、みんなに知れ渡っているのか、気に入っているこの道を一度だけでも彼女と走れないか、来年同じクラスになったら嫌だな。その思いのたびに靴は泥水を後ろに蹴り上げる。白いシャツの背中が、心境を映すように、汚い泥にまみれた茶色の斑点で染まっていく。それがなぜか贖罪のような心地よさを感じさせ、僕はさらにペースをあげた。

 翌日の月曜日はいつも通りだらだらと過ぎた。以前と違うのは、彼女の教室の前をできる限り通らないようにしていることくらいだった。放課後の部活もいつも通りこなすと、気づけば陽もとうに沈んでいて、あとはライトの明かりに照らされてのトラックの整地で終わる。その整地の最中、前方に二人並んだシルエットの片方がこちらに向かって手を振っている。
「おい菅原ー、ちょっとこっちー。」
僕が唯一あのことを話した800の友人だ。なんだろうとトンボを引きずって追いつくと奴の隣にいたのは彼女だった。三人並んでトンボで線を引く。
「菅原、この靴どう思う。」
 彼女の靴を指差しながら、問うてくる。薄明かりのなか見ると、かなりクッションの入ったもので、衝撃は吸収してくれそうだが陸上用の中では重そうだった。
「重そうだけど足わるいんだし、ジョグくらいならちょうどいいんじゃない。」
「でも足に合わないらしくてさ。」
 足の形はみんな違うし、好きなフィット感も違う。そんなことをここで言われてもどうしようもない。どうしようもなく奴の罠だった。
「どういうふうに合わないの。」
 これを言わせたかったんだろうなと、永礼をちらっと見ると、前を見ながらも笑ってやがるのが暗がりでも分かった。
「ちょっと親指の外側が当たってて痛いんだけど。」
 彼女はこの前のことなどなかったように自然に話してくれた。
「そのメーカー、幅が細めだから他のメーカーのワイドタイプなんかを店で履いてみたら。」
「そうなんだ、ありがとう。」

 この嫌がらせについて問い詰めねばなるまい。校門をでると自転車で皆それぞれの方向に帰っていくが、永礼と僕は少しだけ同じ道をいく。今日はそれにとどまらず、道を逸れてまで牛丼屋チェーン店に寄った。当然だが店内は煌々と明るく、親子連れもいればサラリーマンもいて、暗く寒い外から来た僕にはきらきらちくちくする感覚があった。メニューを前に安さと量について二人でああだこうだ言い合って注文を終えると、さっそく切り出した。
「あのー先ほどの件ですが。やめろ。」
「よかったじゃん、せっかくおれが、こう…セットしてやったのに。」
「無理やり会わせようとするな。」
「会いたくないの。」
「会いたくないというか話しづらいから。向こうも対応に困るだろうし。」
「そっか。ごめんわかったわかった。」
 軽いのりの奴だから考えなしにやってたんだろう。そう思いつつちょうど運ばれてきた牛丼を二人して無言でかきこむ。そして水を飲んでふと隣をみると、永礼はいつの間にか箸を止めてじっとどんぶりを見つめていた。その顔に表情はなかった。
「虫でも入ってたか。」
 永礼は視線をどんぶりに向けたまま
「お前だけじゃないんだけどな。……橋村さん好きなの。」
「ん。」
 一寸ことばに詰まる。それが意味するところは一つしかない、その時はそう思った。
「おまえもそうなの。」
「おれだけじゃない、この際だから言っちゃうけど土屋も。」
 思えば僕らは愛だの恋だのに関した話はまったくと言っていいほど、この2年間してこなかった。部活の時は命がけだし、オフの時は馬鹿やってれば楽しかったからだ。何の不満もなかったし、むしろそれだけでよかった。自分からそんな話を振るなんて、ましてや同じ部内に好きな人がいるなんて言えなかった、言う必要もなかったのだ。しかし永礼と土屋はそんなことを話していた。そう思ったとき、正直、自分は除け者にされていたのかもしれないと感じた。 「そっか。それで、どうする。」
「別にどうしようもないじゃん。というか何をどうするって。」
「じゃあなんでさっき二人で話してたとこに、おれを加えたんだよ。」
「さあ…。自分でもわかんねぇ。」
 そう言って永礼は急にガツガツと食いだした。
 ちぐはぐな客層と、チカチカする店内の曲が僕らの周囲で気だるく上滑りしていた。それと効きすぎた暖房が相まって少しくらりとした。
「おまえも告白するつもりなの。」
 そう聞くと、手を上げて待ったのサインから復帰した永礼は、
「おれは…。」「それもわからない。」
「土屋は何て言ってた。」
「そこまで深くは話してないからなあ。ただ橋村さんのことをおれがぽろっと言ったときに、おれもーって感じで。それだけ。」
「ふうん。しかしなんでこうなるかな。」
「そりゃ、あの控えめな感じと…やっぱりあの雰囲気のなせる技だよ。誰にでも自然に接する、っていうかあの自然みたいな空気すごいよな。まったく飾ってなくて、普通の自然体なのになにか芯はひんやりするような、な。」
「そうだな、わかる。なんだ、おれたちおんなじじゃん。」
 気炎を上げている永礼の言葉は決してまとまってはいなかったが、仮に僕が言いなおしてみたところで似たり寄ったりな表現しかできなかっただろうし、同じものを感じていることに違いはなかった。
「なんかおれだけ抜け駆けみたいになっちゃったな。」
「は、失敗したやつが何か言ってるぞ。」
 そう言って明るく笑う永礼に、つられて僕も笑ってしまった。

 帰宅後、牛丼など無かったかのように夕食をとり、風呂に入って、もう今日は寝てしまえと思ったが、思い返し始めると寝付けない。僕が告白したと教えたときから永礼はどういう心でいたんだろう。僕との付き合いと彼女への気持ちとで板ばさみになっていたのではないか。そうとは知らず、あいつの前で一人あたふたしていたのが滑稽に思え、恥ずかしく、申し訳なく、今日気持ちを教えてくれたことだけが救いだった。
これからどうすればいいのか、牛丼屋で永礼が繰り返したとおり、僕にもわからなかった。いくら考えたところで解決策などないと決められている、永礼もそう思っているか。

それから数ヶ月、何事もなく過ぎた。注意したにも関わらず、また永礼が無理に引き合わせようとして、何度も僕が釘を刺し直して、人のいない部室や帰り道、橋村さんのことで盛り上がって、ときどき土屋も入ってきたりなんかして。そしてずっと憂えていた三年のクラス分けは橋村さんと別になり、心から安堵した。部活でも告白以前と同じように接することができていたと思うし、まず平穏な日々といえた。
通常、三年はインターハイで引退することになっている。地区予選を突破できなかった僕は、五月のこの時期から少しずつ受験勉強をちゃんとやり始め、桜は青々とした葉を勢いよく伸ばし出していた。理詰めな事が嫌いだという理由から既に文系コースへ進んでいたので、いろいろ迷った末、私大法学部にでもいって税理士を目指そうと考えていた。他方、体育大学を目指すやつはずっと練習しているし、推薦をとろうとする者は定期テストに向けて必死だった。
 そんな中、体育祭の準備が着々と進み、高校生活さいごの思い出を作ろうとする体育祭実行委員会の者もはりきっていた。方向は違うが皆それぞれの考えを持って一歩を踏み出していく。誰も自分の道が間違っているとは思ってもいないし、それこそが最善だと考えている。にもかかわらず方向がてんでばらばらなのだ。これまで道に沿って進学してきた僕はその不可思議な現象に戸惑いつつ、最善だと考えこの場から散っていこうとする者の一人として日々を過ごしていた。方向を変えるなら今だぞと、心中で自分に周りに言い聞かせながら。

体育際当日、もし僕が校長なら間違いなく延期を即断していたと思う。前夜に降った雨のせいでグランドに水溜りができ、全面ぬかるみとなっていたのだ。そこで2、3年生がかりだされ、雑巾で水を吸ってはバケツに絞るという馬鹿みたいな苦行を強いられた。空は突き抜けるように晴れ、ときおり鋭い風が吹くキンキンと硬い日だった。いくら皆で水を吸っても競技をすればグランドに足跡が残るのは確実で、その場所を使う野球部の連中からぼやきが絶えなかった。 そうしてなんとか手作業で水をあらかた取り去り、遅れながらも体育祭の開催となった。
体育祭は運動部の独擅場というのは大間違いで、長距離競技などないし、むしろ嫌いな短距離を無理やり走らされ順位付けされるという、僕ら中長専門の者にとってはあまり気乗りのしない行事だった。体育祭開催中はかなりフリーに動け、どうでもいい競技のときは部室でだべることも可能で、100メートル走でサッカー部の者に負けた僕は、今もいじられ続けている最中だった。
「よーい、など不要。あれのせいでタイミングが。」
 という僕の苦しい言い訳に対する短距離陣からの反論は、それこそ罵倒と言っても過言ではなかった。
「あれがなかったらどうやってクラウチングスタートすんだよ!。」「よーい、からのタイミングが重要。あんたそれでも陸上部なの。」などなど。1500以上には、”よーい“がないのだ。最初は問答を面白がっていた僕も少しうんざりしてきたので部室から這々の体で退散し、応援団の応援合戦を見ることにした。集合写真などのときに使う、長い板を階段状にした観覧席の最上段、人がいないところを選んで一人立って見ることにした。太鼓に合わせて何十人もが舞い踊る、それを見て、やはりあそこまで動きを合わせるのは凄いと思うと同時に、自分には個人競技があってるなと改めて感じたり、友人がミスしているのを見つけ、先の憂さ晴らしついでに後でつついてやろうなど、どうでもいいことが延々と頭を流れていく。そんなふうにぼんやり眺めていると、視界の端から誰か近づいてきたと思ったら、立っている僕の足に触れるほどぴたりと横に座る。橋村さんだった。彼女は話しかけることもなく、ただ応援合戦をじっと見ていた。意図が掴めず、僕も視線をグランドに戻す。そのまま静かに時が経過していく。応援団員が一丸となっていることと対になるように、僕ら二人も観戦者として、陸上部として、またそれ以外の意識も含まれて繋がりを僕は感じた。午後になっても空はキーンと晴れ渡り、はるか上空で切っ先の尖った風が空気を切り裂く音が聞こえてきた気がした。
「この前はごめんね。」
 唐突に彼女は言った。前を見ながら。
「あれはただおれが言いたいこと言っただけだから、橋村さんが謝るのは変だよ。」
 そう言いつつ足元の彼女に目を向けたが、前方の応援合戦を見つめている彼女の横顔は髪で隠れ表情は読めなかった。
「謝るのはおれの方だし、ただ同じ部活ってだけの奴からあんなこと言われて困ってたのも分かるし、でもおれも自分でどうして急にあんなこと言ったのか分からない、迷惑だったのは…。」
 完全にパニくってまくしたてている僕を、足元の彼女はいつからか見上げていた。
「違う! あのとき私があいまいにしたから。それでずっと困らせちゃった、どうにかしないとって分かっていながら何もしなくて迷惑をかけてたのは自分。ごめんなさい。」
 またあのときと同じ沈黙ができた。
「まだ好きでいてくれてる…かな…。」
「え。」
 あのときとは少し違った沈黙があった。
「菅原君、あのときの私と同じ顔してる。」
 
 それから僕らは一般的に付き合うというような形式的、急展開的なことはなく、今までより互いの距離が近くなった程度だった。それぞれ目指す大学があったため、学校で塾で家でと受験勉強に明け暮れ、メールはすれどデートもしない。二人でそう決めたことだった。

それでも廊下ですれ違うときはお互い頬が緩んでしまう。僕の勉強のスタイルは塾には通わず、学校から帰って仮眠したあと朝方まで勉強し、学校の無駄な授業を睡眠にあてるというものだったので、体力的にも精神的にも辛かった。しかしスタートが遅かった僕にはそれしか方法がなかった。一方彼女はこつこつやってきていたので、塾にも通って着々と無理なくゴールを目指していた。他の人がどうしているなどと考えても何にもならない、僕は自分で自分のことを精一杯やるだけだった。

しかしその日は限界だった。眠いからやる気がでないのか、やる気がないから眠いのか、積もってきた疲れが耐えられるラインを超えようとしていた。今日は休憩だ、そうホームルームの時間で決めた僕は、放課後そのまま眠ってしまうことにした。
眠気が強いときの睡眠は深く短い、すっと起きることができた。隣の机では橋村さんが、シャーペンを走らせていた。体育祭のときを思い出しそうになった。 「おはようございます。」
 寝起きの僕がだらりとそう声を掛けると、
「おはようございます。」
と、わざとかしこまった返事が返ってきた。
時計を見るとホームルームから二時間は寝ていたらしい。太陽はもう夕暮れの仕度を始めていた。
「ずっといたの。」
「うん。」
「どうしておれが寝てるってわかったの。」
「ちょっと友達と喋ってて、帰ろうとしたんだけど、いつもすぐなくなるはずの誰かさんの自転車がまだあったから。」
「そっか。次から違うとこに止めないとな…。」
「ストーカーではありません。」
 そう言って笑った彼女は、立ち上がって歩いていき、窓をがらっとあけた。柔らかな夕暮れに冷まされた空気が流れ込んできた。彼女がいるからか空気に優しさがあった。それに気が和み
「疲れたー。」
 僕が心からそう吐き出すと
「寝すぎでしょ。」  なんてつれない言葉。
「帰ったらもっと寝よう。」
「今からこんなじゃ、最後までもたないよ。」
「でもまだ模試だとc判定だしこれくらいやらないと。」
「うん。」
 それから彼女は ふむ、と少し考えたふうから、おもむろに鞄をがさごそしだし、塾の英語のテキストを引っ張り出してきた。
「これなんでこの訳になるの。復習ついでに教えて。」
「これはですねぇ、っていま疲れたって言ったの聞いてた。」
 そうしてふたりで笑い、短い勉強会が催された。

「どうして急にあの体育祭の日、自分もって言ってくれたの。」
 ずっと気になっていたことを、今なら聞ける気がした。ぼんやりしていた彼女は
「んー、菅原君が好きって言ってくれたのがいちばん大きいかも。それからいろいろ考えてたら時間が経っちゃったというか、なかなか踏ん切りがつかなかったというか。」
 ということは、あの日ぼくが告白せず、永礼や土屋が告白していたら彼女は今ここにはいなかった。二時間ここで寝て、起きて、誰もいない教室を見渡して、夕暮れの中そのまま一人で帰る自分の姿を想像した。納得が、いかなかった。
「じゃあおれじゃなくて他の誰かが告白してたら、その人と付き合ってたってこと。誰でも、よかった。」
 彼女はとうぜん怒るだろうと覚悟して言ったが、全く気にした様子はなかった。
「誰でもよかったっていうのはひどいな。私も付き合う人くらい選ばせてもらいたい。でもね、菅原君が言ってくれたから今こうやってここにいる。他の人が言ってたら他の人のとこにいるかもしれない。そういうものかなって。」
「自分の意思は。流れに任せてるだけにみえる。」
「それでいいんじゃないかな。行動するかしないか、それで関わりが変わっていくものだから。最初から決まっている運命なんてないよ。」

 外はもう暗くなりかけていた。鍵をかけて教室を後にし、ロッカーまで歩いていると突然の雨音。傘を持っていない僕らは玄関口で呆然と立ち尽くした。二人なにも言わず、パタパタとアスファルトを打つ雨の音だけが、辺りを包んでいた。
「菅原君が教室で言った自分の意思は、っていう質問、ここにいることが私の意思だから。」
 こちらへ振り向き
「行こ。」
 そう言うと彼女は雨の中へ走り出した。
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