水族館

 幼馴染と下校するのが日課となっていたが、それはただクラスが同じというだけの理由だった。
「また寝てたねぇ。」
 にやにやしながら人懐っこい顔がこちらを向いた。雨が降って、こーこの顔がいつもより暗く鮮やかに見えた。僕の顔を覗き込むそれがなぜか気恥ずかしく何も答えなかったが、そのときはいつにもましてお喋りだった。
「みんな違う学校へ行ったから寂しくない。あの人がいないこの人がいないって、ずっと考えてるのって変。」
「それ五月病じゃない。」
 このまえ休憩時間に聞いて以来、面白いと思い覚えていた。若葉の伸びた桜の枝がたっぷりと水滴をつけるのを、傘で押しのけながら、こーこの歩調に合わせて歩いた。
「このまえ言った、やる気がなくなる病気。」
 確かその時すぐこーこに話して聞かせたと思った。しかしそこまで言っても何も言わないので、忘れているのかと訝り、言葉を継ごうと思ったところでぽつりと言った。
「そうかもしれない。」
 いつものゆったりとした調子だったが、加えて慎重な響きがあった。ここのところ一緒に帰っていたせいで、彼女の心情が僕に移ってくるようだった。生まれてからの半分を親しみ慣れた学校で過ごしていたところに、手を叩いて、はい今日からこっちの学校ね、と言われてもどうしてよいのかわからなかった。周囲から事あるごとにおめでとうと声をかけられ慌ただしく過ごしたが、他者の盛り上がりの中に居て疎外感がつのった。
「五月病ってどうやったら治るのかなぁ。」
「来月になったら治るよ六月だし。」
「ははは、そうかなぁ。」
「きっと。」
 休憩時間に友達の言った言葉をそのまま喋っている自分がいた。眼下の放水路は水かさを増して、枝葉やゴミやよくわからないものが一緒くたになりながら見るまに流れ去っていった。いつもと違う光景に僕らは歩を止めた。赤錆びた欄干へ大粒の雨が容赦なく打ち付け、鈍い金属音とともに跳ねた飛沫が顔に散った。そこへ小さなこーこの手がおもちゃのようにくっついていた。顔に水滴を受けながら何も言わずじっと濁流を見つめるこーこが、理由なく流されていきそうで、無理やり手を握り引っ張ると案外素直に歩き出した。
 お互い二つの傘から腕を出し合うかたちになり、手をつないだ方の袖はすっかり濡れてしまっていた。薄い長袖は皮膚に張りつき、雨が当たっていない上の方まで段々と色を変えながら染みわたってくるのが不愉快だった。ただあの場から離れさせるためだけに握った手は、今では煩わしかったが、力強く握られているのを感じるたび離しがたかった。濡れて冷たい腕と対照的に、掌から熱が伝わってくる感覚がなんともいえず落ち着かない心地にさせた。
 その妙な感覚から家のことを思い出した。これまで安心できた家は、中学に上がると急に勉強しろとうるさくなった両親によって今では居心地の悪い場所だった。おまえの将来のためだ、私たちが苦労したから、それで勉強しろということらしかった。つまり両親がしてこなかった勉強を、代わりに僕がさせられるという意味だった。それでまじめに授業を聞かず、宿題も罰がない限りやらなかった。自分たちが祝いたいから祝い、勉強させたいから勉強させる。そこにある本当の主体は僕ではなく、常に両親と一般論だった。そのことに気づいて関係がぎくしゃくしだし、僕は苦しまぎれに家の外へ代替を見出そうとしていた。
 その点こーこは生まれつきのまじめで、時間がかかってもきっちり宿題をやるし授業も決して眠らなかった。よく宿題を写させてもらう負い目もありこの手を無下にはできなかった。こーこの両親はどうなのか気になったが、それは口にすべきことではないと理屈抜きに感じた。そしてその言葉をうっかり出すと毎回後悔することも知っていた。
 みんながそうしているからと、両親の勧めを振り切って履いてきたスニーカーも靴下もすっかり水浸しで、じゅくじゅくと音を立てては僕を不快にさせた。帰ってまた小言を言われることを思うと自分へのやるせなさと怒りが出てきそうになった。隣の黄色い長靴からも同じ音がして、みじめな連帯感が音とともに二人の周りに漂った。濡れた袖も、握られた手も、傘を支えて疲れた腕も、近づいてくる家も、隣でずっと喋っているこーこも、何もかもが執念深く僕に絡みつくのを、犬のように身震いして今すぐこの場に払い落とし、息の限り大音声を上げたかった。
 ふいに体が思うように動かなくなり、足がもつれてたたらを踏んだ。勢いで傘が前に投げ出され、大粒の雨は一気に降り注いで衣服を濡らした。はっとして振り返ると、こーこが僕の手を綱引きの綱のように思いきり引いて踏ん張っていた。
「どうしたの。」
 力を緩めて、それでも手を握ったままこーこは言った。勝手に喋るのをほうっておいたから気に障ったと思った。
「悪い、考え事してた。なんだっけ。」
「今度、水族館に行かないって言ったんだけど。」
「あぁ、行こう。」
 僕は開いた傘をまた頭の上に戻しながら、そう言った。

 約束の日、五分前に駅へ行くとこーこはもう待っていた。平日の朝を足早に急ぐ人の中で、暖色の上下を身に着けて立つ小さなその姿は、僕の目にでさえ周りから浮いて見えた。調べていた通り切符を買ってプラットホームに降りた。
「今ごろみんな勉強してるかな。」
 言って笑いながら隣を見ると
「そうかも。」
 こわばった表情で向かいのホームをじっと見ていた。その様子を見ていると僕も落ち着かなくなってしまった。
「今日行くって言ったのおまえだからな。」
「いいって言ったじゃない。」
「先に言い出した方が悪いんだ。」
 言い争っている間も人の波が押し寄せ、前へ後ろへ押しのけられた。ただでさえいけないことをしているというやましさがあるうえに慣れない場所に立ち、自分でも気づかず不安を抱え続けた僕らは、いつも以上に熱を帯びていた。アナウンスが響くたびに押しやられ、二人の距離を近づけさせた。そうしていると周囲とは異物として僕らが存在していることを暗に自覚し、こちらをじろじろ見て行く人があるとこーこにすがるような心地だった。それはたぶんこーこも同じで、一種の共依存の空間が二人分の範囲に小さくできていた。触れただけで崩れる空間に縋りついて居ようとした。
 周りに負けないよう声を大きくして叫びあっていると、お互いに息が顔に感じられる距離にいて、いよいよこーこの顔が火照るようだった。
「とにかく電車に乗ろう。」
 この場を逃れるため乗るべき電車を密かに探していた僕は、目的の電車が滑り込んでくると有無を言わさずこーこを押し込み飛び乗った。幸い車内はほどほどに混んでおり、言い争いを続けるのに適当でなかった。向かいの窓の外では電線が上下にジャンプを繰り返した。緊張と慣れない匂いとで気持ちが悪くなり、じっとしていなければならない時間の経過が授業などよりずっと長く感じられて、手すりを何度も何度も持ち替えた。隣を見るとこーこも難しくだまって窓を見ていたが、視線に気づくといつもより力なく笑い、まだあの空間が執拗に僕らに付いてきていた。
 駅から水族館まではすぐだった。小学校から使い続けている、創立記念日で休みとの言い訳でチケットを買い館内に入った。
「なにか見たいものでもあんの。」
 来ることに必死だった僕は、一息ついて言った。
「クラゲがねぇ、すごく綺麗だったってお姉ちゃん言ってたんだぁ。」
 急に元気になってこーこは言った。それにつられて僕の疲れは溶けていき、一転して愉しい気分がこーこから僕の中へやってくるのが嬉しかった。暗い通路へ軽やかに歩き出した後ろ姿を見ていると、僕の心もその足どりと同じリズムでテンポよく弾むようだったが、どうしてかとっさにこーこの姉を思い出した。服の色も髪の結びも、以前僕が見たことのある姉とよく似ているのだと少し考えてから気がついた。そうしている間にも夢中で先に行ってしまうので、考えるのをやめて後を追った。
 こーこが立ち止まると僕も立ち止まり、僕が立ち止まるとこーこも戻ってきていっしょに水の中を覗き込んだ。綺麗だねぇという言葉に同意しながら、整然と列をなす小魚の群れに学校を思い浮かべた。
「あの小さい魚の群れ学校みたいだな。いちばん先頭にいるのが先生で。」
「じゃあいちばんうしろにいるのはこーこだねぇ。」
 いつものおっとりした口調でそう言った。
「ゆっくりしてるからな。」
「もしあの群れからはぐれたらどうなるんだろうねぇ。」
「そのうちまたいっしょになるんじゃないの。」
「本物の海だったら見つけられないかも。」
 確かにそうだった。広い海ではぐれてしまったら、ちょっとやそっとの努力でまた会えるとは思えなかった。
「大きな魚に食べられないように、ああやってまとまってるんだよ。もし離れたら食べられちゃうかもね。」
 いつの間にか後ろに水族館の職員が立っていた。二人ともガラスに手をついて前にばかり集中していたので、驚いて振り返った。
「下にいる大きい魚、あれがマグロなんだけど、たまに小魚を食べちゃうんだ。」
 男は言いながら、青い作業着に通した両腕を大きく広げてから閉じ、にこにこ笑って目線を合わせるようにしゃがんだ。僕は突然のことに臆したが、こーこはマイペースだった。
「かわいそう。」
「そうだね。でもあの小魚も他の生き物を食べてるんだ。」
「そうなんだぁ。」
 神妙に納得しているこーこを隣に見て、僕は勇気を出して聞いた。
「小魚が食べられるときってどんな感じ。」
 男から笑顔が突然消え、しかめっ面になり、突然こちらへ大きな手が伸びてきた。
「こんなだ。」
 伸びてきたその手は僕の脇の下からおなかまでくすぐった。不意打ちの攻撃によって床を大声で笑い転げた僕は、救いを求めた拍子に見下ろし笑っていたこーこを転ばせた。無機質で暗い廊下にそれと対照的な三人の笑声が広がり、薄暗い不気味さを隅々まで中和していった。
 しばらくして笑いがひと段落すると
「で、おまえらいくつだ。学校は。」
 と男は言った。こーこが年齢を答えた。受付と同じように創立記念日だと僕は言ったが、学校の名前を聞かれると言葉に詰まった。連れ戻されるのか、怒られるのか、と思ったが、電話番号を聞いたきりで
「おし、次行くぞ。」
 と、立ち上がり行ってしまった。僕らは床に座ったままの姿勢でしばし顔を見合わせたが、向こうで早く来いと手招きしている姿を見ると笑って立ち上がった。次々に現れる水槽の前で僕らはいちいち立ち止まり、そうすると男は即した面白おかしい話をした。クラゲの水槽の群れは色とりどりにライトアップされ、真っ赤な水槽など綺麗というよりおどろしさに満ちていた。男はさっきから一緒についてくるようになっていたカップルと何かずっと話をしながら、時折りこちらを窺っていた。
「すごいねぇ。」
 循環装置のモーター音と水音が、こーこの覗き込む水槽から規則正しく響いていた。青い光に照らされたクラゲの傘がすぼんだり開いたりしてどこかに行きたいともがくのだが、一寸あとには真逆を向いた。青色蛍光灯の光が水面の波紋を汲んで、ガラスに付かんばかりに近づくこーこの顔や、服や、水槽に触れた手に揺れた。その肌の上で踊る模様に僕は見惚れた。普段運動をしないこーこの白い肌に水槽から光が差し、幻想的にたゆたう絵柄は近寄りがたい艶めかしさを覚えさせた。ふっくらとした腕はすべてを受け入れるかのごとく静かであり、そこにうつる透きとおった水色の模様が終わりなく自由にうつろうのを眺めているうちに、心の奥からだんだん穏やかになっていくのを感じた。水面の波立ちから水とクラゲを透過した模様は恐ろしく澄みきり、体をも貫いて向こう側に抜けていくようであって、振り返ってみると、水槽の明かりを背景にぼんやりとした影が足元に落ちていた。時を忘れたその空間で底まで落ちていた心が、魅了された腕に触れてみたいという欲求の存在を自覚したとき、水底からふわりとほこりが離れるような静謐さをもって舞い上がった。しかし腕はどうやっても動かず、ただ僕の肩から垂れていた。触れることのできない模様がとめどなく形を変えつつ、こーこの腕から体、顔へと自在に行き来する様を黙って視界の端に見ることしかできなかった。踊る絵様は美しい彫刻のように顔を彩った。そのときふいにこーこがこちらを向いた。模様は乱れ跳び、「綺麗だねぇ。」といつもの見慣れた顔で笑った。
 そのあとも男に連れられ水槽を見てまわった。途中から飽きてきた僕は、男とこーこと一緒についてくるカップルの一団を前に見て歩いた。同じものが一つとない展示の中で、気になった水槽の壁面に手をつくこーこの姿を後ろから見ていると、放水路の欄干を握っていた姿と重なった。あの時も今も実は同じ気持ちなのではないか、異なるのは泥水か海水か、服が濡れているかどうか、ということだけで、本質は未知への興味なのだという気がした。すぐ飽いて放り出す僕とちがい一心に向き合えることは才能の片鱗なのかもしれないが、自分と異なるものを内包するこーこが急に不明瞭な存在に思え、僕の理解の範囲内にいてほしいと後ろから願った。あの時は僕の勝手な考えで欄干から引き離したが、思いがけず何かわからないものを、大雨の赤さびた橋の上で対価として払ったのかもしれなかった。そうだとすれば支払ったのはこーこであり、通貨の異なる僕に今さら補填できるわけがなかった。
 暗く出口の見えない通路はうねるように続き、通路に沿って僕の思考が蛇行していくのを鬱々とした心で感じた。閉塞した順路に時おり現れる淡い緑の、非常口の灯を知らずに探していた。出口の灯を救いとして探す行為は即ち、心配するべきは自分自信なのかもしれなかった。
 外に出ると午後の陽に圧迫されるような眩暈を覚え、僕らはそろって怯み立ちつくした。男は最後まで咎めることなく送り出した。五月の晴れ間の日、そこかしこにずっと溜まっていた雨水が、はるか上から降る陽光に先導されながら足並みをそろえ空へと昇っていった。歩道の植え込みから温かく乾く土の、粉っぽい匂いが風に乗った。その場に立ち止まったままこーこは、今朝かき置きしてきたと言った。その様子はまるで切実な後ろめたさを吐露するようで、僕は大きな声で笑った。
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