春風

 境内の、砂利を踏む。靴裏と石畳との間で小石が軋み、歩を進めるたび、しずかにこころへ届いた。
 参道の左右からせまる木々は上から両手を広げ、明けきらない朝の空をいっそう暗く見せていた。本堂に向き合いしずかに目を閉じる。出勤前にここへよると気が締まり、面倒で乱雑な外界の事象にまざっていっても、自分だけは真正な気持ちを貫いて一日を過ごせると、そういう気がした。

 午後早々から雨となり、現場作業は中止となった。傘を片手に自転車をこぐ。平常心是道。志岡は目前で揺れる折れた傘の骨を見ながらつぶやいた。日々の何気ないことこそが仏の道という言葉なのだそうだ。先日寺の人から聞いた。折れた傘を片手に帰宅することが仏の道だとすれば、仏の道でないものとはいったい何か。などと分かりもしない問答を暇つぶしの卓球のように頭で跳ねさせていると、いつの間にか自宅の近くだった。そのままアパートの駐輪場へ向かおうと思ったが、温かな春の雨に気が変わり友人の家へ行くことにした。車輪が雨水を巻き上げながらしゃあしゃあと音を立てた。雨脚を弱めた雲は陽光に透かされ白く輝いて上にあった。

 友人宅に着いたが、平日の昼間が休みという社会人はそういない。例にもれず彼も居ないが、用事があるのは家の前の犬、柴太郎だ。掛けてある綱を首輪に繋ぎ、代わりに鎖ははずしてやる。
「さて行きますか、柴太郎さん」
 と、仕事気分が抜けず、柴太郎に敬語を使う。そのほうが今の志岡にはまだ馴染んだ。

 犬は水を嫌うと祖父から聞いたことがあったが、この犬にそれを感じたことはない。今も濡れた毛をべったり体に貼り付け、早く来いと綱を引いている。風はその毛を乾かそうとでもするかのように、強く優しくそれは春の風だった。引かれるままに道をゆき、右折左折を繰り返した。通り過ぎる車はときおり水をこちらまで跳ね上げたが、気にならないほど志岡の心は春に高揚していた。むしろその飛沫さえも美しいと感じるほどだった。たじろぐほどの重みをもって吹く春の向かい風だが、柴太郎はものともせず立ち向かっていく。こちらも負けじと水たまりをよけ、時には飛び越えて、後を追った。

 いかばかり歩いたか、山道へ入らんとするところであった。このころにはさすがに疲労を感じていたため、まだ先へ行こうとするところをなかば強引に綱を引き、このあたりで折り返すことにした。平常心是道。この日常は確かに仏に通じるとも思えた。

 友人宅に戻るとおばさんが花の手入れをしているところだった。この湿潤で花も春を感じただろうか。
「ご無沙汰してます」
「まあ久しぶり。元気」
「お陰様で。また勝手に散歩へいってすみません」
「いいえ、平日は誰も連れてってくれないもんだから連れてけとせわしくて。毎日行ってくれてもいいんだから」
「それはちょっと」
 苦笑しながら友人の部屋を見る。閉じたガラス窓の向こうで、吊るされたレースのカーテンが所在なげに、じっとしていた。
「彰います」
「まだ帰ってないわね。このところ遅くって」
 疲れていた志岡は長話になる前に愛想を言い、友人宅を辞した。

 その翌日も雨であった。早朝すぐ仕事は休みだという連絡が入り、今日はどうしようか思いあぐねていると、彰から連絡が入った。昨日散歩にいったことが伝わったのだろう。
掴みかけたコートをハンガーにかけ直し、ドアノブの固い感触を確かめながら扉を開いた。

 連日の雨降りはさすがに気がふさいだ。しかし彰が車を出してくれるというのでアパートのひさしの下で待つ。道を挟んで向こう側の、駐輪場のトタン屋根が雨粒をうけひときわ大きな音をだしており、心地よいその音は静寂をより際立たせた。雨に耐えながらも徐々に錆に侵食されるトタン屋根の姿をみると、志岡は自身も生き抜くことができると思えた。

 ほどなくして車がついた。助手席に乗りこみドアを閉めると社外品マフラーが低音を響かせた。
「行先は」
「パチンコでも、と言いたいところだけど金なくってさ」
「実家暮らしのくせに」
「実際ないんだよ。それに行き先は決めてる」
 車はワイパーを懸命に動かして、住宅街の路地を抜けていった。昨日歩いた道とは思えない、味気ない光景が窓の外を流れ続けた。

 ついた先は高校だった。
「懐かしいな」
 思わず言葉がでた。
「だろ。今日なんの日かわかるか」
「あいつが死にやがった日だ」
 連日ひがささないせいか、暗さがそこかしこに染みつき、建物本来の性質を変性させてしまっていた。その無人の構内へふりそそぐ温かい小雨で、妙に嫌な空気が体の奥底からむせかえるようだった。小雨はかるく、自由に軌道をえがき顔にふきつけた。
「泣かないのか」
 問われたが、問うた本人の目に涙はなかった。
「もう泣けないな」
「そうだな」
「ずいぶんたったもの」
 冷静を装ってはみたものの、昨日から引きずる春への高揚と、その場の陰鬱な雰囲気が絵の具のように入り交じり、悲しむことのできなくなった心を襲った。駐輪場のトタンを侵食する錆びのように、それは執拗に心の奥へ奥へと広がり先回りしてくるような感覚があった。しかし、結局は自分も死ぬのだ、そのあと延々悲しむ人もまたいないだろう、逝くのが早いか遅いかの違いだけなのだ。志岡はその思考が苦し紛れのものだと薄々自覚しながら、それでも逃れる術から逃れる意志を持ち合わせてはいなかった。

 曇りではあったが、すぐに降り出しそうな気配はない。砂利を踏みしめいつもの参道を歩く。静かに本堂へ手を合わせ黙礼した。久しぶりに賽銭を投げ入れた。無人の境内にちりんと音が通る。音の行方を追って振り返ると、志岡がいま歩いてきた参道が真っすぐ続いていた。
目次へ